昭和26年6月18日布教


布教当初の教会
※昭和36年までの10年間、加治木町向江町で布教。
 家屋は、故松田モト氏の借家。



金光教加治木教会のあゆみ
 金光教加治木教会は、平成18年(2006年)に布教55年を迎えました。
 この加治木の地に、初めて金光教の教会を開かれたのは、大正14年に金光教甘木教会(福岡県)より布教された平島只助(ただすけ)先生です。 平島只助先生が、昭和19年にお国替えされるまでの間、町内に多くの方が導き助けられご神縁を頂かれました。
 しかし、終戦を迎え教会は閉鎖され、その後いく人かの先生方が、この加治木の地でご布教を試みられましたが、布教困難のため断念しておられます。 そうした中に、昭和26年6月18日、まだ戦争の傷あとが残る加治木町の向江町に、甘木教会より、前の教会長矢野政美先生ご夫妻がご布教になられました。(このときを現在の加治木教会の布教始めとしている。)
 矢野政美先生は、お道のご用に立たせていただくときに、親教会である甘木教会の初代教会長 安武松太郎先生から「今日まで矢野の家におかげをこうむってきた事実を、そのまま人に伝えるだけでも、けっこうご用に使っていただける」と教えられていました。
 しかし、そのようして始まった実際の布教は、思いがけないほど厳しいものでした。参拝者は少なく、食べることにさえこと欠く日々が続きました。
 そのため、とうとう布教3年目のころには、加治木での布教を断念し、甘木教会 二代教会長 安武文雄先生に、転地布教を願い出、進退を伺うこととなりました。
 甘木教会 安武文雄先生に御取次を仰ぎ、それまで耐え忍んできた3年間の厳しい布教の事の次第を申し上げられました。矢野政美先生は、その日まで厚きみ祈りを頂いていることは知っていながらも加治木での布教の御用をあきらめかけていました。
 しかし、その日実家に寄った際、矢野政美親先生の母堂(ぼどう)矢野クラ刀自(とじ)が諄々と諭されるには「あんたが商売か何かであれば、ここでは思うようにいかないから他の所に変わるということもよかろうが、お道の御用というものはそんなものではなかろうと思う、あんたは甘木を出るとき、加治木の土にならしていただくという決心で行ったのではなかったのですか、その決心はどうしました加治木で打って鳴らぬ太鼓はどこで打っても鳴りません、それを鳴らそうと思えば太鼓のバチが折れるまで、太鼓の皮が破けるまで打たせていただけば必ず鳴ります。あんたが一生かかって、道が開けんでもよいではないね、あんたが死んだのち、後を継いで下さる人が継ぎやすいようにしておけばそれで良いではないね」  との優しい言葉づかいの中にも、決死の覚悟を厳しくうながされたのでした。その一信者ではあるものの、道のご恩に報い奉らんとの強き願いを秘めた母クラ刀自お言葉に、翻然(ほんぜん)と目覚めるものがあり、それより決死の覚悟で布教の御用に取り組むことになりました。
 …その決心がついた頃から、ぼつぼつと教会を探し訪ねて参拝して来る人があるようになり、人が助かるご用ができだしたということです。
 そのような御用の中で、命のないような病気の人が助かる、大変な災難からのがれる、家庭の悩みから救われる、事業や商売にお繰り合せを頂くなどの、おかげをこうむる人たちができて行き、信心を求めて参拝してくる人たちができて行ったのです。
 そのようにして、金光教の道が絶えかけていた、この加治木の地に、矢野政美先生夫妻が、改めてご布教されて平成18年6月18日で55年を迎えることとなりました。



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