『母の想い出』B 『母の想い出』B
 
三、入信の動機

 
 当時、娯楽施設の乏しい農村にあっては、特に豊作の年など、一つの団体が主催して、「野芝居」や「映画」などをする慣わしがあった。結婚後三年目の秋、(明治三十七年、一九〇四年)村の消防組主催で、田舎廻りの「野芝居」が催され、三日間の興行は大入り満員であった。いよいよ千秋楽も終え、主催者側の慰労ということで、一日料理屋で宴会が開かれた。
 父(仁吉郎)は気性も強く実直な性格であったが、そのときから若干遊興をするようになった模様である。
 そのようなことから、そのことがもととなって、その年の晩秋の頃より病魔に犯される身となった。母は、日夜悩み、人の勧めで観世音の信心を始めた。
 しかし、その験さらになく、父の病勢はとみに進み行くのみであった。時あたかも十一月半ばのこととて、農家にとっては、いわゆる猫の手も借りたいほどのいちばん多忙な時期であった。
 他所では、既に稲の収穫も終え、田耕し、早いところでは麦蒔きも終わっているというのに、働き手の主人が床についていては、仕事の能率も遅々として進まず、未だ稲の刈り入れすら出来ないという状態で、重態の主人を抱え、その看護と農繁期の最中に立つ若き新妻は、日夜苦悩した。
 かかる時に我が親神様の愛の御手は、生まれ故郷である三奈木の実家にほど近い、安武つね刀自によって下されたのである。(刀自は後に、教師となって山口県に布教)
 安武つね刀自は、「甘木の二日町に金光教といって大そうあらたかな神様がおられるから、ご信心しなさい。あなたの主人の病気は、きっとおかげ頂くから」と、熱心に導かれたが、母は、「私は、ただ今お観音様の信心を始めております。先日もそのお講にかてて(加えての意)もらいましたから、信心は迷わぬことが大切です。そのようなキツネともタヌキとも知れぬ神様には参りませぬ」と、頑として聞き入れなかった。ここにも母のこうと決めたら一心にそのことに打ち込むという性格がうかがわれる。ところが、それくらいでひるむような安武刀自ではなかった。なおも重ねて熱心に、再三再四導かれた。
 さすがの母も、この刀自の実意さにほだされて、「それでは、安武さんの顔を立てに、いったいどんな神様か、模様見に行ってみよう」と、ようやくその気になり、甘木教会(当時初代布教当初甘木町二日町)にお引き寄せを蒙った。  
(つづく) 

『私の頂く 安武松太郎師』表紙(見出し)

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