『母の想い出』8 『母の想い出』G

八、母の帰幽

 
 父帰幽後の母は、その悲しみの中にも、父の霊の安心を祈るとともに、信心の継承を祈り続けていた。
 また、信心のつながりというものは、こんなにも有り難いものかとしみじみ思わせていただくことは、母と嫁と、さらに孫の嫁との仲が、真実の親子のように心のふれ合いがあった。
 私の妻(サダ子)も、
 「三奈木の実家の父母よりも、堤(私の実家)の方のお父さんお母さんが、ほんとうの親のような気がします」と、折にふれて言っていた。
 母はまた、孫たちにも、信心を強いる事はしなかったが、心中では、一心にそのことを祈り続けていることを、折にふれて感じさせていただいた。
 孫達が教会にお参りすると、とても嬉しそうに私に語ってくれた。
 母は、いわゆる七黙三言型で、言葉少なく言うのであるが、その言葉の中には、引きつけられるほどの、シャンとしたものがあった。
 昭和三十一年、加治木布教満五年の年を迎えさせていただいた。母も、心からそのことを喜んでくれ、何くれとなく心を使ってくれていた。
 その記念祭を、三月十八日に奉仕させていただくべく、親先生に御取次を頂いて、期日を決定させていただき、その準備に一同大童であったが、同月十三日夕刻、甘木より至急の電報が届いた。
 それは、「ハハシス スグ コイ」という母の死を報せるものであった。
 晴天の霹靂とはこのことを言うのだろうか。率直に言って、その時の私は驚きと悲しみで、何も彼も投げ出したいような気持ちであった。
 それは、布教五年記念祭を迎えさせていただく内容の中に、親神様、金光様、親先生のみ祈りの千万分の一にも報答し奉りたいとの願いと、これまで陰に陽に布教の力になってくれた母に喜んでいただきたいという一念が、母の死によって絶たれたように思えたからであった。
 取るものも取りあえず、信者であり、また家主でもある松田モト氏に後のことを頼んで、親子三人で夜行列車に乗って甘木へと向かわせていただいた。
 十四日の明け方親教会に着かせていただき、母の生前の御礼を申し上げ、実家に駆けつけると、母の遺体は奥の間に安置してあり、さながら、スヤスヤと眠っているようで今にも目を覚まして声をかけてくれるような気がするほどであった。
 私は、母と今生のお別れをすべく、御神前の御神酒を頂いて盃に汲み、母の唇を開けて頂かせ、そのお流れを頂いて、
 「お母さん、永々とありがとうございました」と、お礼とお別れの言葉を捧げさせていただいた。
 母の臨終のようすを聞けば、十三日の朝、「今日はどうも気分が悪い」と言っていたが、夕刻にご不浄に行き、そこで倒れた。
 「有り難うございます」
 と、ただ一言、言い残して意識不明になったが、約一時間後には、安らかに息を引き取らせていただいたとのことである。
 首筋の大動脈が切れ、入棺の折、背中一面に紫色の内出血の跡があった。
 実にも、母のかねての願いどおり、主人に先立つことなく、父の帰幽後百三十七日目、後を追うように身退らせていただき、しかも、その日まで人の手を借りることもなく、農閑期で時候の上にもお繰り合わせ頂き、七十五年の生涯を、ただ、「有り難うございます」との一言を残して閉じさせていただいたのである。
 諡号を、「矢野クラ美真心刀自之霊神」と頂き、葬儀は翌十五日、安武文雄親先生ご祭主のもとご執行いただき、遺骨は加世熊の墓地に父仁吉郎真萩翁の奥津城と並んで埋葬させていただいた。
 母逝きて既に十五年、当教会の布教二十年記念祭を奉迎させていただくに当たって、今更ながら、その当時のことが偲ばれ、今は共々に幽冥の安武恩師のみ許にあって、加治木布教の御用の上に、大きな力となって働き続けている父母の願い成就のおかげを蒙らせていただきたいと、朝夕祈り続けさせていただいている現在の私であります。

  師を偲びおやを偲びて
            つづるふみ  政美

 (おわり)
 昭和五十六年十二月十三日発行
 発行 金光教加治木教会
 編集 矢野政美 


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