『母の想い出』D 『母の想い出』D
 
五、入信後十年のできごと

 
 安武恩師によって、天地金乃神様の御神徳を悟り、生神金光大神御取次の尊さを身をもって感受した母は、それからは、教会参拝を唯一の楽しみとし、昼夜の別なく信心の稽古に余念がなかった。
 生来「一心」に物事を貫くという性格であったので、いかなる時にも、ただ、「親先生、四神金光大神様、生神金光大神様」と御取次を願いつつ、すべてのうえに大みかげを蒙らせていただいた。
 その例を二・三挙ぐれば、次のようなことがあった。
 入信前に授かった胎児は流産または死産したが、その後は安産のおかげを蒙った。日を追うて、父も元の健康な身体になり、夫婦心を合わせて家運の挽回を夢見つつ、信心家業にいそしんだ。
 ある夏の日、母はせっせと田の草取りに励んでいた。正午の時報が鳴るまで顔を上げなかったとのことであるが、指先にチカッと痛さを感じたので、手を上げてみると、一匹の蛇が指先に咬みついて離れない。母は古老から「蛇に咬まれたら金持ちになる」ということを聞かされていたので、てっきり「これは金持ちになしていただくお知らせだろう」と思ったとのことである。それが実は「まむし」であったことがわかり、止血をして傷口に御神米を頂き、包帯をして、そのまま医者にも行かずおかげを頂いたと物語っていた。
 また、兄一雄(明治四十年十一月五日生)が四歳の折、近所の久蔵という三つ年上のいとこと外の間で、戯れながら相撲を取っていた時に強く土間に投げ落とされた。その途端ボキッと音がして足の骨を折ったのである。
 ちょうど母は三奈木の実家に用件のために行っていたが、その急報を受け、取るものもとりあえずとんで帰り、その足でお広前へ走り込み、親としての子どもに対する養育上の不注意を深くお詫び申し上げ、万事よろしくとお願い申し上げ、我が子を投げ落とした相手の子に対する恨みは、いささかもなかったのである。
 安武恩師の厚き御取次により、この兄もそのまま骨折した足に御神米をはらせていただき、包帯をして一ヶ月ほど床に就いたが、今日は一歩、翌日は三歩と、日ましに回復し全快のおかげを蒙らせていただいた。兄は自分が歩けるようになったのがよほど嬉しかったのであろう。幼児にもかかわらず一生懸命小さな手で藁縄をなって、丸いつぐり(毛糸をまるく巻くように藁縄をまゆ形にしたもの)にし、教会御建築にお供えさせていただいたところ、安武恩師はたいそう喜んでくださったとのことである。
 兄のことで今ひとつおかげを蒙らせていただいたことがある。兄は生まれながらに額に、当時の一銭銅貨くらいの「ホグロ」があった。母はそのことがふびんに思えてならず、ある日安武恩師に、
 「一雄が今は小さいから何とも思っておりませんが、小学校へ上がるようになりますと、人から笑われたりして恥ずかしい思いをすることがございましょう。何とぞ、できることでございますなら、あのホグロを取っていただくことはできませんでしょうか」と、思いつめた面持ちで御取次を願った。
 それをお聞きになった恩師は、
 「親神様は、この身体のお造り主で、いわば製造元であらせられる。何もないところから、こんな切れば血の出る肉体をお恵みくださったのだから、ホグロの一つや二つ取って下さることに、造作はなかろう。しかし、取ってしまっていただいたのでは、一雄さんが成長して、あんたは小さいときにホグロが額にあったのを神様にお願いして取っていただいたんだよと言っても、そんな馬鹿なことがあるもんかと言って信用すまい。そこで、神様にお願い申し上げて、後で証拠になるように、そのホグロが他のところへ宿替えするようにお願い申し上げよう」と仰せられ、お願いしてくださったが、それから数ヶ月たつうちに、額のホグロがだんだん薄くなって、後には、きれいに拭ったように無くなった。「ああおかげ頂いた」と思っていると、今度は右の首筋の、ちょうど着物の襟で隠れるところにホグロができた。
 このことについて、このようなことがあったと母が語っていたのは、その兄のホグロが宿替えさせていただいたという噂が広がっておったので、約三粁ほど離れた一里塚というところに、姉川氏という竹細工を業としている人がいたが、父が養蚕に使う竹籠を注文していたのを、でき上がって弟子の人が届けに来てくれた。うっかりして名前を聞くのを忘れて困ったが、     「ホグロが宿替えした家」を思い出して、
 「もしもし、この辺でホグロが宿替えした家はどこでしょうか」と、ちょうど家の前で尋ねたので、
 「はいはい、ここですよ」と、受け取ったとのことである。
 右は当時、安武恩師の御取次によって蒙らせていただいたおかげの一例でありますが、財の余裕もなかった暮らしの中で、「神様、親先生」とただ一心におすがりさせていただいき、かくみかげを頂いたのであり、まことに勿体ないことであります。
 ある時、父は家が困窮していたので、当時好景気を呈していた筑豊の炭鉱に行って働きたいと言い出した。すると母は、
 「炭鉱に行くなら、あなた一人で行ってください。私はどうしても、この甘木の御広前のそばを離れたくありません」
 と言ったので、父も炭鉱行きを思い止まったとのことである。
 後になったが、明治三十六年出生の長女クニエは、翌三十七年一月一日、はかない命を閉じており、さらに、大正二年二月十五日には、次女春子が齢四才でふとした風邪がもとでジフテリアに罹り、短い命を断っている。母は愛する者を失うことの悲しみを、身をもって味わったのである。
 かかる中にも、恩師の厚き御取次によって、傾いていた家運も次第に立ち直らせていただいたが、その頃から、再び父の遊蕩が始まり、せっかく手に入れさせていただいた田畑もまた人手に渡るようなことになったが、母はそれを神様よりの御試練と受けて、信心の稽古に励み、夜食べる米がなくても、ご理解に耳を傾けお結界の前を動こうとしなかった。
 ある時父は、友人から
 「矢野君、君は家内を拝まんといかんぞ。家内のおかげで今のような裕福な家になったのだから」と言われた。父は、
 「そうだ、俺はいつも心の中では、家内を拝んでいる」と、答えたとのことである。
 一方、母の方では、
 「私は主人を拝んでおります。主人が若いときに放蕩をついてくれたおかげで、この尊い親神様にめぐり合せていただいたのですから」と、夫婦が心の中では、互いに拝み会っての日常生活であったのである。
 兄の少年時代は、いわゆるどん底生活であった。農家であって米がない。毎日一日分の唐米を買いにやらされたとのことである。ある日のこと、米を買っての帰り、石につまずいて転んだはずみに、唐米が道いっぱいに散乱した。
 通りがかりの人が、それを見て笑われた。兄は情けない思いで泣いて帰ってきた。母も切ない思いをしたことであろう。
 また、村で秋に催されていた野芝居とか、種々の興行には、裕福な家の人が上等の席を取り、貧しい家は隅の方の末席であった。
 当時は、差別待遇がはなはだしかったのである。
 父も再度の不行状をお詫びし、私(政美)の少年時代には、兄のような体験はない。(兄と九つの年齢差がある)
 以上のほかに、いろいろのでき事があったと思うが、聞き覚えの一端を記させていただきました。  
(つづく) 

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