『母の想い出』F 『母の想い出』F

七、母の信念

 
 こうして、すでに無き一命を救われた母の信心生活は、新たな一歩を雄々しく踏み出したのである。
 一方、家にも身にも深い神幸を蒙らせていただいて、農作物の上にも年々豊作のおかげを頂き、特に養蚕の上には、他所では病蚕で失敗することがあっても、かつて一度もそんなことがなく、家族も皆健康で、二十数年間医師にかかったこともなかったほどである。
 大病全快後の母は、いっそう日参に励み、家族挙っての信心の稽古に勤しんだ。私も幼児の頃より少年時代には、毎晩母に連れられ、約二粁の道を教会にお引き寄せいただいた。
 母の日参は「せねばならぬ」というものではなくて、「せずにはおれぬ」お参りであった。
 また、母の信心の姿勢の中で、次のようなことがあったとのことである。
 明治の末から大正の初めにかけて、恩師には、桂大人の悲願を受けられて、大教会所御建築御用材献納の御用のため、たびたび木曽山中にお越しになっていたが、その現場から、「カネスグオクレ」「カネアルダケデンシンデオクレ」などの電報がひんぴんと関係教会に飛んでいた時のことである。
 あるとき「ヤノニソウダンセヨ」との意味の電報を頂いたとのことである。その由を承った母は、勿体ないと感激した。
 それは、「数多い信者の中には、相当の裕福な方々も多い。それに、私のような貧しい者に、そのようなご相談をしてくださるとは、何というありがたいことであろうか。よし、どうでもこうでも御用にお使いいただこう」こう決心した母は、さっそく親戚回りをして協力を依頼した。
 ところが、みな異口同音に「とてもできない」と断られた。ここにおいて、母は腹を決めたのである。「そうか、それだったらもう親戚には頼らない。私どもでおかげを頂かせていただこう」と、夫婦相談して四重町(現朝倉市内)にある藤井質屋(金融業を兼ねて)に借金の相談に行った。そして、家、屋敷、田地田畑を担保に借りることを得て、そのまま御用に立たせていただき、しかも「自分らのようなものをこのような御用にお使いくださるか」という、有り難い勿体ない思いで一杯であったのである。

 村中で最も貧困の底にあった矢野の家が、限りなき御神徳と安武恩師の御取次によって、次第に向上の一途をたどって行く状を見て、世間の人々も今更ながら、我が道の尊さに目をみはるのであった。
 母は、次第に田畑が増えるに従って、近所の人を手伝いに来てもらう折など、かつて他の話しはしたことがなく、口を開けば信心話しをさせていただいた。それは、「我が身我が家におかげを頂いていることを、ただ自分だけで持っておくのは勿体ない。どうか一人でも多くの人に助かっていただきたい」との思いからであったのである。
 従って、堤部落にも次々と入信の氏子が増え、朝参りなど、お互いに大きな声で誘い合いつつ、連れ立ってお参りさせていただくようになった。世間の人々も「矢野さんの家は信心があるから違う」と、一種の尊敬の念と信頼の眼で見て下さるようになったのである。
 これは戦争中(第二次世界大戦)のことであるが、姉千代子が主人に死別し、種々の事情のため四人の幼児をつれて実家に帰ってきて、数年間ともに暮らしたことがある。
 当時兄(一雄)にも、五人の子女に恵まれていて、家族は十五名の大所帯になった。未だ道理をわきまえない子どもたちは、睦まじい日ばかりでなく、従兄弟同士で激しくケンカなどすることがあったが、その中にあって母は、たえず仲を取り持って、丸く丸く治めるのであった。それで、それだけの大家族でありながら、一つも波風の立つこともなく、いつも助け合いつつ、朗らかな明るい毎日を過ごさせていただいたのである。

 特に、母は主人を立てることをいつも心掛けておったようである。そこで子どもたちは父に願うことでも、一応母を通して相談するのが常であった。
 また、身体は小柄であったが、腹が座っているというか、ものに動じないしっかり者であった。それと、子どもに信心を伝えることを唯一の願いとし、どんな忙しい時でも神様のこととなると進んでおかげを頂いた。
 それは昭和二十八年六月二十五日・二十六日のことであった。九州一円は激しい集中豪雨に見舞われ、数多い水死者、家屋田畑の流失など、甚大な被害があったが、特に筑後川流域はいっそう激しかった。
 親教会にも、家屋を流された人達が避難をされていた。その人々を心から気の毒に思った父母は、できる限りの御用に立たせていただきたいと願い、当時は未だ食糧事情が悪く、農家は一年分の保有米のほかは全部供出をせねばならず、少しのご飯の中に菜っ葉とか、甘藷蔓(かんしょづる)を入れて補っている時代であった。また、その頃御取次を頂いて古家を壊し、かねて念願としていた新築のおかげを頂いた時であり、数名の大工さんが入り込んであり、昼食も出さねばならないので、だんだんと保有米も残り少なくなって、果たしてこの秋の刈り入れまで持つであろうかと、不安を感じていた時であったが「ままよ、先は神様がどうかしてくださる」という心になって、数俵白米にさせていただいたのを、父が兄嫁に、
 「フジさん、明朝炊く米は取ってあるか」と問うので、兄嫁が、
 「はい、明朝の分は取っております」と答えると、
 「うんそうね、それだったら白米のあるだけ全部御用に立たせていただこう」と言うて、翌朝炊く分だけ残して、全部出させていただいた。それが真に有り難い気持ちで一杯であった。
 ところが「秋まで持てまい」と思っていた保有米が、十分足らせていただいたのみでなく、一俵ほど余らせていただいたのである。
 父も、この事実を目の当りに見て、「人の助かる御用に喜んでお使いいただけば、後は神様がちゃんと立ち行くようにはして下さるものだ」と、しみじみとした面持ちで語っていた。
 だが人には、おかげに馴れるとついはじめを忘れて、神の恵みとはいいながらも涙のにじみ出るような感激が薄らぐものである。
 それまでは近所でも良質の水として評判を受けていた井戸水(井戸掘りの折、御取次を頂いて掘らせていただいたもの)が、突然真赤に濁って使い水にならなくなった。
 母は早速、その由を恩師に御取次を願い、
 「親先生、私の方では井戸水が濁りまして使いものになりませず難渋いたしております」と申し上げると、恩師は、
 「矢野さん、それは井戸水ではなくて、あんたの信心が濁っているのじゃろう」と仰せられた。
 この恩師のお言葉を頂いて、今日人並みの生活ができさせていただくことができるようになり、家族も健康で、信心のない人からも羨望の的にまでされるようになっている。まったく親先生のみ祈りの賜でありながら、最近の私はそのおかげに馴れて、おかげに腰かけてはいなかったか。あの三十三歳の大病のことを忘れておった。自分がおかげ蒙らせていただいた喜びをもって、もっともっと人を助ける御用に立たせていただくべきであったのに、いかにも信心に濁りが入っておった」と、気付かせていただいたとのことである。
 その夜、一心にお詫びを申し上げつつ、御神酒を井戸の中に注がせていただいた。
 ちょうどその夜はひどい夕立があって雷雨が激しく、嵐の一夜であった。翌朝は、昨夜の嵐も夢のようにカラッと晴れた夏の青空を拝ませていただいたが、母は朝の洗面をさせていただこうとして、「かねてが真赤に濁って使いものにならないのに、昨夜はあんな激しい夕立であったから、とても使われまい」と思いつつ、つるべを上げてみると、きれいに澄んだお水になっているのである。
 母は、「神様はこうしてまで、私の信心にむちを打ってくださり、お引き立てくださるものか」と、今更のように勿体ない恐れ多い思いがさせていただいたと物語っている。
 また、このようなこともあった。
 鳥飼(地名)の親戚から見事なホウレン草をもらった。当時は、そのような野菜は家には作っていなかったし、食糧事情の悪いときであったので、家内中たいそう喜んだが、母はどうしても自分たちで頂く気にはなれなかった。早速、安武恩師に召し上がっていただこうと思い、教会に持参させていただき、当時家では母が炊事責任者であったが、我家では家でできたフダン草をゆでて夕食のおかずにし、
 「これは今日頂いたホウレン草だよ」というと、皆それを信じて、
 「おいしい、おいしい」といいながら頂いた。
 このようにして、ただ「親先生、親奥様」と心からお慕い申し上げ、喜んでいただこうと努めさせていただいたのである。
 祖母フイが、畏き神幸のまにまに、昭和十一年二月二十四日八十四歳の高齢をもって身退ったが、その後間もなく、かねてから願い続けていた改式祭を、安武恩師をお迎えして仕えていただき、ご先祖を真新しい八足にお祀りし、新しい三宝にお供え物をさせていただいた時の感激は、私も未だに脳裏に残っている。
 昭和十八年初冬、母は脳溢血で倒れ、三日三晩は意識不明の状態であった。当時、長崎県大村で徴用工(海軍建築部)として勤務中であった私のところにも「ハハキトクスグカエレ」の電報が来た。
 取るものも取りあえず、休暇を願って帰ったが、安武恩師の御取次によって私が帰郷させていただいた時には病状は好転し、意識も戻り、日増しにおかげ蒙らせていただいて、やがてすっかり全快させていただいた。齢六十二歳の時であった。
 三十三歳の大患以来、再度の命の接穂の大みかげを蒙らせていただいたのである。
 安武恩師は、かねてから私を道の御用にお引き立てくださる思し召しがあられたようである。折にふれてそのことを仰せくださったと、後日母が語っていた。母もまた、そのことを口には現わさないが、絶えず祈り続けていたようである。
 昭和二十二年四月三日、私ども夫婦は意を決して教会修行に上がらせていただくことになった。それより前に、恩師に夫婦そろって道の御用にお取り立ていただく決意についてお伺い申し上げた。
 二人して、応接間に固くなっていると、恩師が入っておいでになり、種々お話しになった中で、
 「世の中には種々の職業があるが、人も助かり、神様もお喜びくださり、自分も立ち行くことのできるお道の御用ほど尊いものはない。
 あなたはお母さんが三十三歳の折、九死一生の大患を救われたのちに生まれた者であって、今日までいろいろなおかげを頂いてきている。それを人に話してやるだけでも十分に御用ができる」と仰せになり、更に「決心しなさい」と加えて仰せられた。
 ここにおいて夫婦の心は決まったのである。
 同年五月三日に親教会を発たせていただいて、同期の吉田朝奐師(後、三河刈谷教会長)田中正利師(後、宮崎県高千穂教会長)古賀正人師(後、福岡県渡瀬教会長)と、私ども夫婦五名打ち揃って、金光教学院に入学させていただいた。
 この道の御用に夫婦揃ってお引き立て頂いたことが母にとってはたまらなく嬉しく、また、有り難い思いが一杯であったようである。
 当時は終戦直後のことであり、食糧はもとより、すべての物質の不足していた時期であったので、母は殆んど自分の着物を仕立て直して、私の羽織、袴などに仕立ててくれ、自分は普段着だけになっても、むしろそのことを喜んでいた。
 学院在学中、こんなことがあった。
 ある時、恩師が御本部参拝においでになった。随行が平田繁吉氏、井上宗房氏であったが、母が
 「親先生、これを車中で召し上がって下さい」
 と申して差し上げた節句のチマキを、恩師はそのまま
 「お母さんからだよ」
 と、私にお渡しくださった。私は、母がことづけてくれたものとばかり思い、甘木の修行生皆で、喜んで頂いた。
 その当時の食糧の有り難さは、今日では想像もつかないほどのものであった。
 母は絶えず祈り続けてくれた。
 無事学院を終えさせていただき、親教会の修行生としてお取り立てを頂いたが、母は私を「先生、先生」と呼び、ひとたびお道の御用に立たせていただいた以上、我子であって我子でなくみ手代りの者として尊ぶというおもいであった。
 心からお慕い申し、お縋り申し上げ、真に肉親の親以上に思わせていただいていた恩師が、昭和二十六年二月四日、み齢八十二歳で神上がりになられた。
 その時の、母の悲しみは言語に絶するものであった。
 ご先代(これからは恩師のことをご先代と申し上げます)の百日祭も済み、私ども夫婦は御神命のままに、鹿児島県加治木町に布教に出していただくことになり、父母は何くれとなく準備をしてくれたが、母は特に深い祈りをかけてくれていたようである。
 いよいよ出発の日(昭和二十六年六月十七日)朝の御祈念後、多くの方々に見送られ、しっかりと御神璽を胸に抱いて、親教会を出発させていただいた。
 甘木駅頭に数十名の方が、「万歳、万歳」と見送ってくださった中に、母の姿もあった。その時、気丈な母の目にキラッと光るものがあった。
 それは喜びと別離の悲しみ、前途を祈る交々の涙であったであろう。
 それからは、出発の折にいただいた御餞別のおかげで、殆んど毎月三日に御礼参拝させていただくと、必ず母が待っていてくれた。そして、自分が少しずつのお小遣いを使わずに貯えて、それを、加治木教会への御献備といって差し出すのである。
 また、
 「私は身体の具合で汽車に弱いから、加治木にお参りさせていただきたいけれども、それもできないから、先生がこうして親教会にお参りされるから、それを楽しみに待っております」
 ともいい、父母ともに、一度も加治木にお引き寄せいただけなかったことが、今思わせていただいても残念に思えるのである。
 母の心中には、「自分も一緒に布教させていただいているのだ」という思いがあったと察せられる。
 父は私が布教満四年後、母は五年記念祭の五日前に帰幽させていただいたが、父母とも、布教当初のことであり、何一つ喜んでいただくこともできなかったことを、今更ながら相済まない思いがするのである。
 私の布教史上に、終生忘れることのできないことがある。それは、布教満三年が過ぎた昭和二十九年十月十九日のことである。
 布教以来三年間、私なりに、一生懸命の気持ちで御用させていただいたつもりであったが、布教の実績は遅々として上がらず、お引き寄せいただく氏子もいっこうにその数が増えない。
 このようなことから、夫婦とも前途の希望を失ったような気持ちになり、ずいぶん勝手な考えをした。
 それは「どこか他の土地に転地布教をさせていただいたら、もっと御用に立たせていただくことができるのではなかろうか」などと、夫婦して語り合った結果、意を決して親教会にお参りさせていただき、現親先生(二代文雄師)に、いわゆる進退伺いをさせていただいた。十九日の朝、親教会に着かせていただくと、ちょうど母の姿も御結界の前にあった。
 何の行事もない時にお参りさせていただいたので、母は心中不審に思ったことであろう。
 親先生に一部始終を申し上げ、
 「私のような不徳な者では、とうてい御用に使っていただけそうにございません。勝手なことでありますけれども、どこか他に転地させていただくわけにはまいりませんでしょうか」とお伺い申し上げると、
 親先生はしばらくお考えのごようすであったが、
 「それはひどかろう。しかし、転地布教というようなことはできない。そのような事情であれば、一応引き揚げてくるのもよかろう。そうして腹が決まったら、また布教に出していただけば良いのだから」と仰せ下さった。
 その時の、親先生のご心情はいかがであられたであろうかと、誠に申し訳ない思いで一杯である。
 更に、先代親奥様(初代シケ親奥様)からも、
 「それは仕方なかろう。一度帰ってきたがよかろう」との意味のお言葉を頂いた。
 その時の私は、率直に言って親教会に引き揚げさせていただくことは、あまり気乗りがしなかった。
 でき得る事なら引き揚げずに、このまま宮崎県あたりに移りたいなどと、虫の良いことを考えていたので、大いに迷ったが、
 「親先生・先代親奥様があのように仰るのだから、そうさせていただくほかに仕方あるまい」と心に思いながら、思い余って実家に母を訪れた。
 母はさきに教会から帰っていたが、私の顔を見ると「何事ね」と問うので、母には何もかも打ち明ける心になって、すべてを語らせていただくと、じっと聞いていた母が、静かに口を開いた。
 それは、
 「あんたが商売か何かであれば、ここでは思うように行かないから、他の所に代わるということもよかろうが、お道の御用というものはそんなものではなかろうと思う。あんたは甘木を出る時、加治木の土になしていただくという決心で行ったのではなかったのですか。その決心はどうしました。加治木で打って鳴らぬ太鼓は、どこで打っても鳴りません。それを鳴らそうと思えば、太鼓のバチが折れるまで、皮が破けるまで打たせていただけば、必ず鳴ります。あんたが一生かかって道が開けんでも良いではないね。あんたが死んだのち、後をついでくださる人が継ぎやすいようにしておけば、それで良いではないね」と、泪ながらに励ましてくれた。
 また、そのとき入浴中であった父も、風呂から上がってきて、その事を聞くや、「あんたは加治木に出していただくときの決心を忘れたのか」と、強く諭してくれた。
 そこに私の腹が決まった。
 「それでは、お父さんお母さん、そんなにさせてもらいますから」と答えて家を出たが、道路まで母と義姉が見送ってくれた。
 母は何度も後ろから、
 「辛抱しなさい」「辛抱しなさい」と、繰り返し言った。
 その時の父母の心、また、親先生、先代親奥様のみ心が、私には痛いほど感じられた。
 やがて親教会へ帰り、親先生に、
 「心得違いをしておりました。やはり加治木の土にならせていただきます」と申し上げると、親先生は、
 「そうな、そりゃあ良かった」
 と喜んでくださり、神様にお願い申し上げて下さった。私は往きの憂うつな思いとは打って変わって、明るい心で帰途につかせていただいた。荷物の整理までして、私の帰りを待ち受けていた家内も、帰った私から事の次第を聞き、「それでは、ここでおかげ頂きましょう」と臍を固めさせていただいたのであった。
 それから私は、気持ちも新たに、元気にならせていただきました。それまでは自分の至らなさは知りつつも、「この土地が悪い」「ここの人柄が悪いから」とか、「前の先生が引き揚げられた後だから、御用が難しい」とか、他に対する不満の心があったが、それが大きな間違いであり、結局至らないのは他人ではなくて自分であると気付かせていただきました。
 『何のこの土地が悪かろうはずがない、天地金乃神様のお土地だもの、人が悪かろうはずがない、天地金乃神様の可愛いみ氏子だもの。』と考えさせていただくようになり、それから、この土地の繁栄を願う気持ちになり、また、毎朝御祈念後に、前の教会長平島只助師の奥津城に、お参りさせていただくようになった。
 それから徐々におかげを頂き、昭和三十五年十月に現在のお土地を求めさせていただいて、神様をご遷座申し上げたのである。
 また布教当初の頃、このようなこともあった。
 最初借らせていただいた家は、一軒建てではあったが、六坪ばかりの小さな家で、御神前、御結界が四畳半、お広前が四畳半であった。休ませていただく部屋(ゲイをおろして、二畳敷を自分で作らせていただく)などを作る費用として、実家に相談したことがある。
 送金を依頼した手紙の返事に、
 「送ったが良いか送らないが良いかを、御取次頂いたら、それは送らない方が本人のためと仰せになったから、送らないことにします」という意味のことを書いてきた。
 一時は親を恨むような気が起きたが、送ってやりたいが送ってやれないという親の心の方が、どれほどつらかったであろうかと、後になってわからせていただいたような次第であった。
 この他に挙ぐれば数限りなくあるが、あれやこれやと思わせていただくと、私どもの布教の上に、どれほどの父母の祈りがあり、特に母の思いが深かったことかと、ここに布教二十年記念大祭を迎え奉るに当たって、その当時のことが懐かしく思い起こされるのである。
 ある時(母の晩年)義姉(フジ)が母に、「お母さん、お教会の婦人会に出席させていただくと、皆さんが、矢野さんはお母さんがしっかりした信心を頂いておられるからと言われますけれども、私は、まだお母さんから信心のいちばん大切なところを聞いておりませんが、どこがいちばん大切なところでしょうか、秘訣があったら教えてください」と、問うたことがあった。
 母は、
 「それはまだ言えない、私が死ぬ前に遺言に残していくから」と答えたと、私に聞かせてくれた。
 更にまた、
 「私はかねがね、こう思わせていただいている。この家の財産は皆、親先生の御取次によって、親神様からお預かりしたもので、我が物というものは一つも無い。それで、私が死んだ後に、もしお道のことで、全財産を無くすようなことがあっても、私は、でかした、ようやってくれたと礼を言います」と「あなたには話せるから」と付け加えて、話したことがあった。
 なお、母は常々、
 「私は、父さん(主人のこと)より早く死ぬようなことがあってはならないと思っている。父さんが亡くなられたら、その翌日でも良い。そうでないと父さんが不自由をされるから」と、また、
 「私は、神様からお引き取りいただくときは、農家の忙しくない、人様に迷惑をかけないような時季におかげ頂くようにお願い申し上げている」とも語っていた。
 母の晩年、私が親教会にお引き寄せいただき、母に会いたくなって、実家を訪れた。ちょうど母は、繭から生糸をひいていたが、非常に喜んでくれた。
 暫くして暇乞いをして家を出たが、峰の原(実家から約六〇〇米)のところまで来ると、もう一度母の顔が見たくなって、引返していったこともあった。
 何かしら、温かい懐かしい母であった。
 昭和三十年十月二十六日、父は七十五歳をもって安らかに、
 「親先生と皆さんに御礼申し上げてくれ」と言い残して、お国替えさせていただいた。
(つづく) 

『私の頂く 安武松太郎師』表紙(見出し)

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