『母の想い出』E 『母の想い出』E

六、三十三歳の時大患を救わる

 
 俗に、三十三歳は女の大厄とせられているが、(金光様は「厄年に非ず役年じゃ.大きな世のお役に立たせていただかねばならない」と、み教えになったと承っておりますが)母はそれ以前にも子疳産、また流産をし、恩師の御取次によって救われている。
 この年(大正四年)の七月、母は産後腎臓炎にかかり重態に陥った。主治医は家族の者を呼んで、
 「遠い親戚の人には、早く知らせたほうが良いでしょう」そして、
 「とうてい、だめでしょう」
 と、さじを投げたのである。また、世間の人は「クラさんは亡くなられたそうな」と、夜には弔問に途中まで来て間違いとわかり、帰っていった人もあったとのことである。
 母は、ひん死の病床にありながら、ただ入信以来十年間の過ぎし種々のでき事を思い、ここまでようもようもおかげを頂かせていただいたことよと、御礼お詫び申し上げさせていただき、
 「いま死んでも何の不足はない。しかし、天地金乃親神様にはこうして床の中からでも、御礼お詫びを申し上げることはできるが、ここ十年の間、種々さまざまなことで御取次を頂き、その都度助けていただいた親先生には、お目にかからせていただかねば御礼申し上げることもお詫び申し上げることもできない。よし、途中で死んでも良い、お教会におまいりして親先生にお目にかかり、心ゆくまで御礼お詫びを申し上げ、この世でのお別れを申し上げさせていただこう」と、強く心に決するものがあった。
 家族親類のものは口をそろえて止めたが、母の決心は動かない。決死の参拝をさせていただいたのである。
 その時は、両側から男が二人付き添い、肩を貸してお参りさせていただいたとのことで、後になって、その折のことを「まさに殿様のお通り」といった具合であったと、嫁フジは物語っている。
 ようやくお広前(自宅から約二粁)にたどりついた母は、御結界の前にはい寄った。
 ちょうど、修行中であった川並為作師(熊本県玉名教会初代教会長)がお手代り奉仕になっていたが、母の姿を見て、奥の間の恩師にその由を伝えられ、すぐに恩師が御結界にお座りになった。その時のことを恩師は、
 「矢野さんのそのときの姿は、顔がぶくぶくにふくれあがり、前から見たら耳が見えなかった。あら耳がないと思ってよく見ると、小さな耳がついている。ひざの上に置いたつもりの両手が、腹の両側にある。相撲取りというけれど相撲取りどころではない、まったくの化け物であった」と、物語っておられた。
 恩師は内心「ようもこんな身体でお参りができたものだと泣きたい思いであった」とも仰せになっていた。
 「しかし、ここで弱いことを言えば、せっかく張り詰めて参ってきた(母の)心が挫ける。また、どのくらいの決心でお参りしたのであろうかと、軽く石を投げてみた。池でも水面に石を投げると、波紋を描く。そこでわざと、『矢野さん、えらい肥えたなあ』と問いかけた」とも物語っておられた。
 ところが、母は真剣そのもので、
 「先生、これは肥えたのではございません。腫れているのでございます。先生、今回はとても助かりません。生きるも死ぬるも神様にお任せて安心でございますが、今まで何一つ喜んでいただくことができず、神様にお詫びばかりしております。神様は天地の親様で何もかもご承知ですが、先生にはお目にかからぬとお詫びができませぬので、本日出て参りました。先生、これがお別れでございます」と言う。
 恩師は、泣きたいほどの感動を抑えられつつ、この人には何を言うても取り違えることはないと、思う存分のきついご理解をされた。
 「矢野さん、あんたは生き別れに来たとは、えらい(たいそう)信心の帆を下げたな。
 金光様は死ぬる用意をするよりも生きる用意をせよと仰せになってある。
 今まで何を信心してきたか、一心一心と言うても、口で言うようにたやすいものではない。死んでもよいと言っても、本当に死んだら後はどうなるであろうか。
 主人もまだ若いが、後妻を迎えるであろう。そうしたら二人の子どもは継母から育てられることになるが、どんな思いをするであろうかと思えば、心は千々に迷うであろう。
 死を覚悟しているあなたには、そんな不安はないはず、これからが本当の一心というものじゃ。なぜ、その決心と覚悟をもってお願いせんのか。
 自分は今死んでも、生まるる力も、生きる力もない者が、三十三年間生かされ恵まれてあるのだから、三十三年間もうかったわけだが、三十三年間ご苦労くださってある神様のご損は考えたことがあるか。病気が命取りなら、信心も命懸けじゃ」と、それから本多平八郎忠勝の話をされた。
 「昔、徳川の四天王の一人、鬼本多といわれた豪の者、本多平八郎忠勝が臨終の際に、近習の者を呼んで、矢立と紙を持って来させて、さらさらと辞世の句を詠んだ。それは、上の句を『死んともな ああ死んともな』と書いたので、側に侍っていた家族や重臣たちが、たいそう残念がったということである。
 それは、武士たる者が一番の恥とすることは、死を恐れるということで、佐賀の葉隠にも、『武士道とは死ぬことを見つけたり』と、記されている通りである。それに、世間から鬼本多とまでうたわれた主君が、死に直面してそのような未練がましい辞世を詠むとは何事か、こんな事であれば、早く禅宗の坊さんにでも頼んで、引導を渡してもらっておけばよかったと嘆いたそうなが、その下の句に、『御恩を受けし君を思へば』と詠んだ。それでみんながホッとしたそうな。
 矢野さん、本多平八郎が受けた主君家康公のご恩と、天地金乃親神様のご恩とはくらべものにならないが、あなたは死んでもよかろうが、このご恩には、どうして報いるつもりか」と、強くお諭しになった。
 じっと聞いていた母は、涙ながらに、
 「私が間違っておりました。どうぞお願い申し上げます。」とひたすらお詫び申し上げるのであった。まさに劇的光景であったと想像されるのである。
 恩師はご神前に進まれて、
 「ただ今氏子が死の覚悟をもって一心に縋っております。どうぞ願いをかなえてくださいますよう。今日までのお礼とお詫びの足らざることを自覚して、心からのお礼お詫びを申し上げ、生命は神様におまかせして、一心にお縋りいたしますれば、なにとぞ身体を調えてくだされ、悪血悪毒は大小便で下にお取り払いくだされまするよう………」と、御祈念をこらして下さった。
 かくて、この安武恩師に、今生の別れにお参りさせていただき、恩師からいとも厳しく、しかも条理を尽くされての、み教えを頂いて、母の信心は大きく展開させていただいたのである。
 それは、「振り返ってみると、今日までの信心は、ただ一身一家の上におかげ蒙らせていただきたいとの一心からのものであった。いわば自己中心で、親神様の御立場というようなことはいささかも考えていなかった。これは申し訳ない相済まないことであった。これからは、今日死んだと思って、少しでも親神様に喜んでいただくような自分になしていただこう。神様に喜んでいただくということは、まず御取次くださる親先生に喜んでいただくことである」と、心に強く誓わせていただいたのである。
 帰りも行きと同様、抱えられるようにして連れて帰られた母は、そのまま床に伏して一時は重態に陥り、いよいよ危篤状態となった。
 母から導かれた同信の人々も、見舞いに来られては、
 「あなたがおかげを頂かれねば、初信の人々の信心に動揺をきたすから、どうでもこうでもおかげを頂いてください」と、枕辺で力づけるのであった。
 ところが数日過ぎた頃から、母の容態が次第に快方に向かわせていただき、一枚一枚薄紙をはいでいくように、日に日に腫れが引いていき、かくて、七月二十六日恩師にお暇乞いに参拝させていただいた日から六十九日後の十月三日、病気全快の御礼参拝をさせていただくことができた。
 恩師は心から喜んでくださり、ご神前に厚く御礼申し上げてくださったが、再生のおかげを蒙らせていただいた母の心境は、いかばかりであったかと推察されるのである。
 安武恩師の厚き御取次、み祈りによって、母は命の接穂をしていただいたのである。当然のことながら、母は病後なんとなく身体の不調を感じたので、そのことを恩師に御取次頂くと、
 「もう一人氏子をお恵み頂いたら、体の調子もよくなしていただくだろうから、もう一人お恵み頂くようお願いさせていただくから」と仰せになってお願い申し上げてくださったが、その月に妊娠させていただき、翌年(大正五年)十月二十八日、次男政美が出生させていただいたとのことである。
 その折、母がおかげを蒙っていなかったら、私はこの世に生ましめられることができなかったと思う時、奇びなる神幸と、恩師の御取次、母の信心のほどが有り難く思えるのである。
 母の生前はもちろん、死後今日に至るまで、毎年七月二十六日には特別改まった気持ちで、御礼参拝を続けさせていただいている。
(つづく) 

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