『加治木布教これからの展開』B
『加治木布教これからの展開』B
矢野クラ様の信心の出どころ
その矢野クラ様の、これだけのことを言われるその信念や厳しい言葉が、どこから出てくるのでしょうか。これは矢野クラ様の信心の集大成という気がします。これから二年ほどで亡くなられるという最晩年の時期ですから。矢野クラ様の信心の集大成が言わせる言葉という気が致します。
その矢野クラ様は、最初ご主人が病気でそれを治したいがためにお参りをされておかげを頂いて行かれます。それからだんだんと、田地田畑も増えていくおかげを頂いて行かれるのですが、その矢野クラ様の信心の大きな山場が、三十三歳の腎臓病で医師もサジを投げた大患のというところです。矢野政美先生も仰ってありますが「母の信心が変わった」ということです。ここが大事なところです。
「母の今までの信心が変わった」というところです。お互いもそうですけれども、信心を続けておりまして何か事に当って、気づかせられたり改めさせられたりして信心が変わって行きます。「信心の成長」と日田教会の初代は仰っております。信心が良い方に良い方に成長して行くわけです。
矢野クラ様も三十三歳のときに大病を患われて、そこから信心が変わったと矢野政美先生は仰ってあります。どういうふうに変わられたかというところですが…。
三十三歳のときに矢野クラ様は産後の腎臓炎にかかられまして医者もさじを投げて知らせるところには知らせて下さい、とうてい無理で助からないということを言われたのです。
そのときに矢野クラ様は心の中で、信心にご縁を頂いて以来、様々なおかげを頂いてきた。主人の身の上のことはもとより、様々なことの上におかげ頂いてきてだんだんと矢野の家が繁盛してきておるわけですから、その過ぎ越しし十年のことを病床の布団の中から神様にお礼を申されるわけです。
しかし〈天地金乃神にはこうして床の中からでも御礼お詫びを申し上げることができるが、この十年の間、色々様々なことでお取次ぎを頂き、その都度助けていただいた親先生にはお目にかからねばお礼申し上げることもお詫び申し上げることもできない、よし途中で死んでもよいお教会にお参りして親先生にお目にかかり、心ゆくまで御礼お詫び申し上げ、この世のお別れを申し上げさせていただこう〉と思われたのです。
決心のちがい
途中で死んでもよいと思われたのですね。そこまでの決心ができるということは、なかなかできません。
これまで私はそういう方に一人だけ出会いました。それは、何度かここでもお話ししたことがあります、大口教会の吉永キクノという直腸癌をおかげ頂いた方です。この方が、亡くなられる四十日前、昭和六十年の十二月十日の、大口教会の月例祭にお参りされまして「先生、命のある限りお参りさせてくださいませ、途中で死んだら本望、お広前で死んだらなお本望、這ってでもお参りしたい」と仰ったですね。それから四十日ほど寝込まれて亡くなって行かれました。しかし、そこまでのことが言える人がなかなか少ないです。
矢野クラ様もそのように、親先生に最後のお別れのお礼のお参りをしなければならないと思われたのです。
このことだけでも大したことなのですが、ひとつ間違うと、〈自分は十年間一生懸命信心してきたのに三十三歳のこの若さで死ななければならないとはどういうことだ〉と、逆に神様を恨んだとしてもおかしくないのです。取り様によってはそういう考えさえ生まれてきます。
だから、〈神様に御礼お詫びをさせてもらったけれども、親先生にはお目にかからないと御礼お詫びができないから一目会ってお礼申させていただきたい〉と、それだけでも大変な信心です。
けれども、実をいうとここがあったから後の展開があるのです。これがなかったならば矢野クラ様の後はないのです。当然、矢野政美先生も生まれておられません。
こういう姿勢というのは、神様の計らいを引き出す信心ではないかと思います。途中で死んでも良い親先生にお別れに行こうという、その決心が後の展開につながったのです。それがなければ従容として家で死んで行かれたということになるでしょう。
安武松太郎師の峻厳かつ慈愛深き御取次
だけれども、どうでも親先生とお別れをして死にたいと思ってお参りなされたものですから、この後の展開が生まれたのです。甘木の初代のお取次が、そこであったわけです。
そういう様々の思いで両脇から抱えられるようにしてお参りになさった矢野クラ様に対して、甘木の初代が何と仰ったかというと「矢野さんえらい肥えたなー」と、もちろんそれは冗談で言われたのではないわけです。矢野クラ様が必死の思いであることはわかっているのです。どれだけの決心であるかということを確かめてあるのです。これは名人と名人の一騎打ちのようなものではないかと思います。
それで矢野クラ様は「先生これは肥えているのではありません。腫れているのでございます。先生今回はとても助かりません。生きる死ぬるは神様におまかせして安心でございますが、今まで何一つ喜んでいただくことができず、神様にお詫びばかりしております。神様は天地の親様で何もかもご存じですが、先生にはお目にかからんとお詫びができませんので本日出て参りました。先生これでお別れでございます」と。そこまで言えるというのは、立派なものです。
そのときに甘木の初代が〈この人には何を言うても取り違えることはない〉と思われたのです。ここがまた大事です。
これが言える信者さんというのがまずいません。いませんと言うのは大口教会でということです。ここは別です。ここまでのことが言える信者さんというのは、まずいません。〈この人ならどんなことを言ってもまず聞き違えない〉と、取次者がそれほどの信頼をおける信者さんはめったにおりません。取次者は常に遠慮しながらお話ししていますよ。言いたいことの十分の一も言っておりません。百分の一も言っていないかも知れません。
〈この人にこれを言ったら誤解するな〉ということがよくわかりますから。〈この人は受けきらないな〉ということがわかると、もう言えません。〈ここを改めたら助かるんだけれども〉と思っても、受けきらないのですから言えないのです。
最初にお話ししましたように、どんなに天地の親神様や生神金光大神様が助けたいと思われて、そういうお計らいをもって〈こうすればおかげになるぞ、代々繁盛するぞ〉となんぼ思うても、言えないのだから仕方がないのです。「角を矯めて牛を殺す」という言葉がありますが、殺すより続いておった方がまだいいのです。それなりのおかげを頂いて行きますから。
このように、矢野クラ様に甘木の初代が〈この人はどんなことを言ってもまちがわない〉と思われたということは大変なことなのです。甘木の初代が信頼を置くだけの、常日頃の稽古ができていたということなのです。
そういうことで、有名なお取次になるのです。「矢野さんあんたは生き別れにきたとは、たいそう信心の帆を下げたな、金光様は死ぬる用意より生きる用意をせよと仰ってある、今まで何を信心してきたか」と。今、生きるか死ぬかという肩で息をしている病人に対して、大変厳しい言葉なのです。
「一心一心というても、口でいうようにたやすいものではない。死んでよいといっても、ほんとうに死んだら後はどうなるであろうか。主人もまだ若いが、後妻を迎えるであろう。そうしたら二人の子どもは継母から育てられることになるが、どんな思いがするであろうかと思えば、心は千々に迷うであろう」ということです。
この文章は甘木の初代の言葉通りを覚えてあるんですが録音して書いたわけではなく、聞いたところを書いてあるのですから少しつながらないところもあると思います。
(つづく)
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