『加治木布教これからの展開』D
『加治木布教これからの展開』D
おかげを受けただけでは
神様のお喜びになる信心ではない
私の父がよく話しておったのですが、甘木教会は昭和六年から九年にかけてご建築をされてあります。昔のことですから地上げして、トンボというようなものを使って地つきをして、建築をするのですから日にちがかかるのです。その期間中修行生の方達が不寝番に立たれて、境内地に置いてある材木などの見回りをされるのです。その不寝番に佐賀西教会の田中先生が立たれたときのことですが、夜がふけて見回りをしていると親先生のお部屋から明かりがもれておるので、親先生が電気を消し忘れておられるのかと思われ、廊下の方から上がられて、親先生のお部屋の方まで行かれて「親先生明かりがついておりますがまだお休みではございませんでしょうか…」と声をかけられると「田中さんご苦労じゃな。あのな、子どもたちがおかげは頂くが信心にならんから神様にお詫びをしておる」と仰ったそうです。
「子どもたち」というのは私の父も入っておるのです。ところが当時、私の父は教師になっておるのです。学院に行って金光様の先生になっておるわけです。そうなると教師だから信心があると言えないとも思います。
甘木の初代から見れば教師にはなっておるけれども、信心になっていない、まだまだ足りないということがあったのでしょう。
それは、今話してきたような甘木の初代の信心の境地からご覧になった場合には、少々のことをしておってもまだまだ信心になっていないということだったのでしょう。
私の父は、「田中先生が聞かれたからそう言われたのであって、子どもというのは自分達だけでなく信者さんも含めてみんなではないか」とよく言っていました。みんな手のひら返しのおかげを頂いたり、日を切っておかげを頂くとか大変なおかげを頂いていっておるのですけれども、信心になったとはなかなか言えないのです。
甘木の初代の眼でご覧になられたとき、そういう観点から見て行きますと〈そうだろうな〉と思います。
信心の要(かなめ)、奥義へ
一身一家の助かりから、神様のご恩に報い奉る生き方、またの言い方ではご神慮に添い奉る生き方です。
私の父が、甘木の初代に「信心の要は何でしょうか」と聞いたことがあると言っていました。、信心の奥義ということです。すると「ご神慮をご神慮たらしめることである」と答えられたそうです。「神様の思し召しを思し召したらしめることである」ということです。
これが、私自身もそうですけれども「自分の願いを聞いてください」という信心は皆一生懸命になるのですけれども、「神様のご神慮に添おう」という信心になかなか進めないのです。さらに進めて「神様のご恩に報い奉ろう」とか「神様のお立場を思うてものを観る」というようなことになかなかなか進めません。
だけど教祖様のご信心を見てもそうなって行っておられます。最初は教祖様も一身一家のための信心です。だから、一身一家の助かりを願うことがけっして悪いことではありません。みな一身一家の助かりから始まるのですから。「病気を助けて下さい」「商売を繁盛させて下さい」と願って一向にかまわないのです。そのために一心になっていくのです。
そうして、神様のおかげを頂けば頂くほど神様のご恩というものを感じて行くのです。最終的には、ご神慮に添い奉るという生き方になっていかないとほんとうのところに行けないのです。
教祖様も四十二才で、まず自分の命が助かったのです。熱病で死ぬ番という定めの中にあった教祖が四十二才で九死に一生のおかげを頂かれたわけです。それから三年後には家全体が助かって行くわけです。「精霊お礼申し」とのお知らせようにご先祖様も助かられるように助かりの輪が広がってきているのです。さらに、翌年四十六才のときには立教神伝を頂かれ、一身一家の助かりからさらに赤の他人までの助かりへと広がって行きす。
教祖様も段々と助かりが広がって行かれたのです。だれも一朝一夕にそういうところに行くことはできません。しかし、目指す信心の方向というものをひとつ定めておくということが大事なのです。
よい手本を目当てに進むこと
よい手本を見るということが大事です。何でもそうです。子どもを育てるのも、勉強できるのも、仕事ができるのでのみんなそうです。よい手本を見ていかなければなりません。
いつか話したことがあると思いますが、私が九州ではないある教会の記念祭の教話の御用に呼ばれまして、安武松太郎先生のお話を途中に入れました。すると、後のお直会で、私の目の前に座っておられた私より若い先生でしたが「安武松太郎先生の話を聞いても信心の参考にならない」と言われました。そんなことは始めて聞きましたのでびっくりしました。
どうしてかといいますと「彼は天才だから、自分たちとは違う」ということです。「そんな天才のことを聞いても参考にはならない」というようなことでした。
〈よく言うものだな〉と思いましたが、別にそのことに関して何も言いませんでした。しかし〈そんなことを言うと教祖様はもっと天才だよ〉と言おうかとも思いました。
そのようなとらえ方であったら、いつまでたっても何も進歩しないと思います。〈勉強が自分よりよくできるのは何が違うのかな?〉〈仕事が自分よりよくできるのはどこが違うのかな?〉と探して行くから進歩して行くのだと思います。
一朝一夕に甘木の初代や教祖様のようにはなれませんけれども〈目指すところはあそこだ〉とよい目標を定めて進んでいくことが大事だと思います。
ユダヤ教の高徳な先生の話だったと思いますが、「砂漠を旅する人は星を目当てに進んで行く。星を目当てに進んで行けば、目的のオアシスや街に着くことができる、星を目当てに歩いても星には着かない、けれどもオアシスや街に着くことができる。人間が掲げる理想は星のようなものである」と仰ってあるのです。
要はそんなところまで着かなくてもいいのです。だけれども目指すのはそのような方向であるべきなのです。そうして努力して行くから一歩前に進むことができるのです。
そうすると神様は親様ですから、親子でもそうであるように、子どもが一生懸命努力していると、できなくてもできたような褒美をやります。神様も同じです。
「できない、できない、できない…」と一生懸命努力して半歩でも前に進もうかとしておったら、できていないのにできたようなおかげを下さるのです。だから、おかげを頂いて〈信心ができた〉などと思うと、間違ってとんでもないとこになってしまうのです。
だけれども、目指すところは星なのです。その星とは、教祖様、甘木の初代、矢野政美先生、矢野クラ様です。そういう星を目指して進ませてもらおうとするときに、自分の姿勢がシャンとしてくるのです。
(つづく)
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