『加治木布教これからの展開』E
『加治木布教これからの展開』E


  大口布教の当初

 私自身も、昭和四十七年八月十八日に大口に来させていただきました。翌十九日に甘木の前の親先生に来ていただきまして、御用報告祭という、今からこの教会で御用をさせていただきますとお祭りをお仕えいただきました。そのときには前の加治木教会長の矢野政美先生にもおいでいただきました。
 ところが、それから十ヶ月後の昭和四十八年の六月には、もう私は精神的に行き詰まってしまいました。そのため、四代金光様のお座りになられるお結界に進んで「神様が有難くありません、いかが致しましょうか」というようなとんでもないお届を致しております。
 そのときに四代金光様が、「あなたの都合に神様を合わせるのではありません、神様の都合にあなたを合わせるのです」というご理解をなさったのです。
 その頃の私は、願い信心だったのです。要するに〈こっちの願いを聞いて下さい〉ばっかり願っておるのです。〈ああして下さい、こうして下さい〉と願って、その通りにならないので有難くないのです。それで行き詰まっておるのです。そのために「有難くありません」と申し上げたのです。
 金光様はチャンと見抜いておられまして、貴方の信心は間違っていますよという意味のことを仰られわけです。しかも私は教師なのです。教師が幼稚園のような信心でどうするんだというようなことであったと思います。
 だから「あなたの都合に神様を合わせるのではありません、神様の都合にあなたを合わせるのです」と仰られたのです。これは、甘木の初代が信心の要として父に話された「ご神慮をご神慮たらしめることである」ということと同じなのです。「神様中心に向かって行きなさい」ということです。
 だけれども、私はこのときその意味をぜんぜん分かっていませんでした。そのお言葉を頂いて、有難いとも何とも思っていませんでした。その証拠に、有難くないものですから、大口に来て二年で、前の甘木の親先生に辞表を出したのです。矢野政美先生は三年で行き詰まられた。私は二年です。私の方が行き詰まるのが早いのです。
 
  私の方向転換
 
 そして、翌月にまた御本部にお参りをして、四代金光様に、一年前には「神様が有難くありません」とお届したのに対し、今度は何も言わずに御初穂だけ奉りました。
 そうしますと、その御初穂に対して下がった御神米のお書き下げが「御神米 安武氏」でなく「御神米 大口教会」と下がったのです。
 これで考えさせられたのです。矢野政美先生は矢野クラ様の言葉で決心が変わられたのです。私はそのお書き下げを頂いて考えさせられました。〈どういうことかな、今まではいつも「御神米 安武氏」と書いて下さってあったのに…〉そのときだけ何にも言ってないのに「御神米 大口教会」と書いてあるのです。
 そうして、一週間ほどとつおいつ考えて、ようやく私も変わることができたのです。少しも有難くはないけれども「やはり自分が間違っておりました。辞表は取り下げます。大口に骨を埋めます」と甘木の親先生に手紙を書きました。
 ですから私の場合は少なくとも、そこを通らないことには方向転換できなかったのです。やはり矢野政美先生もそうだったのだろうと思います。そこで方向転換がなされて矢野政美先生も矢野クラ様のお言葉のような、神様に合わせる方向に進んで行かれたのだと思います。神様のご恩に報いるとか、神様中心の方向にズーッと変わって行かれるのです。
 やはりそれなりの時間をかけないと、分からないろころがあります。分からないからと言って焦る必要はありません。求め続けて行けば必ずそういうところに行き当たると言うことができると思います。
 
  大教会所ご建築に際しての御用

 さらにそれから先、矢野クラ様の信心が進んでいきます。そうして大教会所ご建築のとき、木曽山中から立派な御用材を伐り出すわけです。大変なお金がかかるわけですが、何もお金を貯めておって始められたのではないのです。かつがつ九州の各教会から上がってくる浄財で立木を買って伐り出していくわけです。
 そのため甘木の教会でも自分達の生活はギリギリに切り詰められて、昔の白銅貨以上のお金は全部お供えとして木曽に送られたという話を聞いております。九州中の教会がお粥をすすって大教会所ご建築に燃え上がったという時代です。
 これは後の話ですが、銀座教会の初代の湯川誠一先生が九州に旅行に来られたことがあります。銀座教会の今の教会長湯川信直先生から聞いた話です。
 湯川信直先生が若い頃、何人かで「九州に旅行に行く」と言うと、初代でお父様の湯川誠一先生が「私も付いていこうか」と言って下さったそうです。〈教会長が付いてきて下されば、旅費は全部教会長持ちだから自分達は助かる〉と思って付いてきてもらったということだったそうです。
 九州に下って来られて、いくつもの教会にお参りなされたそうです。小倉教会はもちろん、若松教会、久留米教会、甘木教会、日田教会などです。そういう教会をずーっとお参りされて湯川誠一先生が言われたことは「これが大教会所ご建築のときおかげを頂かれた教会の末裔だ」という意味のことを言われたそうです。「あのとき動いた教会は後がこうなっておるぞ」と仰りたかったのだと思います。
 当時はそのようにしておかゆをすすって御用材献納をしておるときです。そのようなときに、甘木の初代が「ヤノニソウダンセヨ」との意味の電報を送られたそうです。それを頂かれて矢野クラ様は「数多いご信者の中には、相当裕福な方々も多い。それに、わたしのような貧しい者に、そのようなご相談をしてくださるとは、何という有難いことであろうか」と、こう受けとられたのです。
 そして、まず親戚に相談されましたが、どこもお金を貸してくれないので、腹を決められて夫婦で話し合われて四重町の藤井質屋(昔の金融業)に相談に行かれ、田地田畑、家、屋敷を担保に入れてお金を借りられて、それを送られたそうです。
 「しかも、自分らのような者をこのように御用にお使い下さるかという、有難い気持ちでいっぱいであった」と、矢野政美先生がそう書いてあります。
 それから矢野家はどうなっていったかというと、「村中で最も貧困の底にあった矢野の家が、限りなきご神徳と安武恩師の御取次によって、次第に向上の一途をたどって行く状を見て、世間の人々も今さらながら、我が道の尊さに目をみはるのであった。母はしだいに田畑が増えるに従って、近所の人を手伝いに来てもらう…」というようなことですから、農業も家族だけでなく手伝いに来てもらわねばならないように繁盛してきてあるのだと思われます。
 これがひとつ間違うと、「あそこは家・屋敷売払ってしまわれた」というようなことで、大変なことです
 (つづく)
 


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