『わたしのいただく 安武松太郎師』A 『私のいただく 安武松太郎師』A
(矢野政美著 昭和56年12月発行)

2、道の御用にお取り立ていただく
 
 恩師は、特に人材の育成を大きな願いとされて、道の御用に立つ多数の教師を、お育てになりました。
 私にも、将来道の御用に立つ者にならせていただくようにと、かねがね母におもらしになっておられたときかせてもらいました。私自身も、母が三十三才の大患のおかげを頂いた後に授かった子であると、絶えず聞かせて頂いておりましたので、お道の御用に立たせていただくことは、有難いことと思わせていただいておりました。しかし、望み多き青春の時代でもあるので、私自身、いろいろな希望を胸に抱いておりました。
 ちょうど、その頃、金光教学院を終えられ恩師の手となり足となって、御用の第一線にお立ちになっておられました若先生(二代文雄師)から再三再四「道の御用に立たせていただきなさい」と勧められましたが、種々のことを考えまして、容易に決心がつきかねておりました。
 そこで恩師に、私ども夫婦の進むべき道についてお伺いにまいりましたのは、昭和二十二年三月のことでした。その意向を申し上げ、応接間で堅くなって夫婦でお待ちしておりますと、廊下にスリッパの音が聞こえ、スッと襖が開いて、恩師がお入りになりいろいろとみ教えを頂きました。
 その中で、「矢野さん、この世の中には職業という職業はたくさんある。お道の御用は決して職業ではないが、仮に職業ということになれば、この世にこれほど尊い職業はまたとあろうかと思う。それは、例えば商売であれば、売る方は少しでも高く売りたいと思い、そのとり高く売れれば喜ぶ。ところが、それを買った方は高買いしたと悔やむであろう。そこで、一方が喜べば一方が悔やむ、片方が助かれば片方が助からないことがたくさんある。それに比べてお道の御用は人の助かることを願い続けるのである。人が助かるということは、神様が一番お喜びになり、また、助かった人が喜び、自分自身もそれによって立ち行かせて下さる。即ち、神様と人と自分と三位一体となって助かるのである。あなたは、お母さんが三十三才の折、九死一生のおかげを頂いてその後に生まれたのである。今日まで矢野の家におかげを蒙って来た事実を、そのまま人に伝えるだけでも、結構御用に使っていただけるから決心をしなさい」と、強い口調で仰せになりました。
 私ども夫婦は、この恩師のお言葉を頂いて、足取りも軽く家へ帰りました。さらに、神様のみ計りとでも言いましょうか、御用に立たせていただくことを躊躇していおりました家内が、当時甘木で開演中の木下サーカスを見て、「少女が高いところで綱渡りや、いろいろな演技をするのも稽古に稽古を重ねてのことであろう。人間一心にならせていただけば、私のような者でも神様は御用にお使い下さるに違いない」と決心してくれました。私どもが、お道の御用に立たせていただきますことを、誰よりも一番喜んでくれましたのは母でありました。
 いよいよ準備を整えまして、昭和二十二年四月三日、親教会の一修行生として入所させていただきました。
(つづく) 

『私の頂く 安武松太郎師』表紙(見出し)

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