『わたしのいただく 安武松太郎師』C 『私のいただく 安武松太郎師』C
(矢野政美著 昭和56年12月発行)

4、学院より親教会修行へ
 
 昭和二十二年十二月、学院の課程を終え親教会へ帰教させていただき、恩師の膝下で修行に入らせていただいた。当時は修行生の数も少なく、帰教後三日目に恩師は御用があられて、私に御結界のお手代わりを命ぜられ奉仕のおかげを蒙らせていただいたが、責任の重大さと未経験のこととて、恐れおののきながらも一心におすがりしておかげを蒙らせていただいた。当時のことを考えると、まったく冷汗の思いであった。

 爾来三年六ヶ月間、修行らしい修行は出来ぬながらもご教導を頂いたが、既に恩師はご老境にお入りになっておられ、生きながらに神になっておられるように拝された。
 恩師のご日常のお姿そのままが信心であられ、自然の発露とでも言えようか、教えられることばかりであった。いろいろなことで失敗し、どんなにお叱りを受けるだろうかと恐る恐るお部屋にお詫びに行くと、いとも軽く「これから注意しなさい」と、笑みを浮かべて仰せられたこともある。ご自分に対してはあくまでも厳しく、人に対しては寛容なお気持ちであられた。
 ご晩年は朝のご祈念と晨朝信話が終わった頃、御神前にお進みになり御祈念されるのが常であった。また、親奥様は、朝の御祈念中は控の間で、恩師の御祈念中は御広前に出られて共祈念をなされた。
 御神前、御霊前への御祈念が済まれると、朝食も召さずに朝奉仕の者とお代わりになって、御結界にお座りになることもしばしばであった。
 一旦御結界にお座りになられたが最後、梃子(てこ)でも動かぬというご態度で、御取次頂く氏子の願いをお聞きになり御理解が続いた。御結界の前にはいつも二、三十名の人々が一言も聞きもらすまいと、耳を傾けて拝聴し信心生活に取り組ませていただいた。
 恩師の御理解を、私なりに感受させていただいたことは、天地金乃神様と氏子の関係を、人間の親と子の関係に例えて、子を思う親の心の切なさと親神の氏子を思し召す神み心とは、その質は同じであるが量においては大差がある。
 親神様の神み心を大会の水とすれば、親の心はその大会の水を、小さなコップに汲んできて入れたようなものであるということを、いろいろな浄瑠璃の比喩をもってこんこんと、噛んで含めるようにお話になられた。
 修行中の私どもは、控の間で御神米の調整の御用をさせていただきながら、恩師のご理解に耳を傾けて聞かせていただいた。
 恩師にとっては、御結界ほど心の落ち着く場はなく、また、楽しいところはおありになかったと拝察される。
 恩師は、教え子たちの上を思い、お役に立つ人になってくれとの祈りが一番深くあられたが、ちょうど、夕食時に恩師がご入浴された気配がしたので、食事を途中でやめて浴場へ飛んで行き、お背な流しをさせていただこうとすると「あんたは、食事中であったろうが、食事はゆっくりと頂かないと体のために悪いバイ」と仰せられた。恩師は
 「もの皆は 神の恵ます賜ぞ 仇にはならじ わずかたりとも」
 のみ教えそのままに、一滴の水も、一枚の紙も粗末にはされなかった。
 さらに、日々の御理解は、氏子を思う親心の切なさを通して、親神の神み心を語り聞かせられたが、それは、ご自身が可愛い盛りの末子の登様を六歳で亡くされ、さらにご長男の百太郎先生を三十一才の若さで亡くされた言葉に表せない親心を、親神様の大御心は、この親心の幾千倍にもありつらんと思し召されての御理解であるので、真に迫った御理解であり比喩であった。頂く私どもは胸元が熱くなる思いがいつもしていた。
 信心は、願うおかげが目的ではなく、今日まで生かされて生きている自分の姿、この身このままがおかげの現れであり、信心は「過去の精算」で、今日までの御礼と御礼(喜び)の足らざる御詫びである。
 恩師お自らが神様の御前に、「何ぼう御礼申し上げても御礼が足らず、何ぼう御詫び申し上げても御詫びが足らんがなあ」と、老いの目に涙を浮かべて仰せられることもしばしばであった。
 恩師の御晩年は、ひたすらこの御礼と御詫びに終始されたように拝せられた。
 恩師は、御結界奉仕をこの上なく大事にされた。教団の要職で御用に出向かれたり、出社の記念祭で外へ出られたり、また、教徒の家の式年の霊祭詞をお書きになったり、遠隔の信奉者への書簡のご返事をお認めになったりされる時は奥の間にあられたが、その外はすぐに御結界にお座りになってあった。修行生の私どもにも、御結界の座を空けることを強く戒められた。
 恩師が軽くご発病されたのは、昭和二十四年七月、吉井教会の月次祭にお出でになってからのことである。当時今日のように交通の便利さがなく、恩師は、比較的近距離のところへは、信徒の方の製材所のトラックの運転台の助手席に便乗なさっていた。今にして思えば、容易ならぬ御時節ではあった。
 恩師のご発病は、日々のお疲れからきた軽微な脳出血の兆候があられてのことで、一ヶ月ほど静養されてほどなく回復され、月次祭・御大祭には斎主としてお立ち下され私どももほっとさせていただいて。
 あたかも二十四年は、甘木布教四十五年に当たり、その記念祭が、十月二十五・六日の両日にわたって御奉仕になられた。さわやかな秋晴れのお天気に恵まれ、参拝者は斎場、庭上ともに立錐の余地なく、盛大な御祭事をお仕えになられ、感激の中に御祭典を拝ませていただきましたが、現教主金光様(当時四代様と申上げておりました)の御参拝があり、祭典後の御祝辞で御理解第六十三節の「一粒万倍といおうが一人がおかげを受けたので千人も万人もおかげをうけるようになるからよい手本となるような信心をせよ」との御教えから、恩師のご功績を讃えてのお言葉があり、さらに来賓の斎藤甘木市長から「私は今から四十五年前に、この甘木の地に安武先生がお出でになったのではなく、生神様がお出でになったと思います。今日の甘木の発展にお尽くし下さり、人身の善導にお尽くし下さいました御功績に対し、町民にかわり厚く御礼申上げます」と述べられたことは、今でも脳裏によみがえってまいります。
 また、祭典後の講話には、北米サンフランシスコ教会長の福田美亮先生が講師としてお出でになり、両日にわたってのご教話を頂き、夜は甘木町公民館で「新日本の進むべき道」と題する公開講演会が行われました。
 甘木町に奉賛会ができ、全町挙げての奉迎でありました。
 恩師にとっては、これがご最後の御大祭となられました。 
(つづく) 

『私の頂く 安武松太郎師』表紙(見出し)

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