『わたしのいただく 安武松太郎師』 金光教加治木教会の信心の原点をつづる
『私のいただく 安武松太郎師』
(矢野政美著 昭和56年12月発行)


金光教甘木教会初代教会長
安武松太郎師




『私のいただく 安武松太郎師』
(矢野政美著)
※『私のいただく 安武松太郎師』は、昭和56年12月13日、金光教加治木教会 教祖大祭並びに布教30年記念大祭の直会として発行。
※安武松太郎師(甘木教会初代教会長)は、矢野政美師(加治木初代教会長…戦後の加治木第二次布教の初代)の、信心の師匠であり、金光教甘木教会(福岡県朝倉市)は金光教加治木教会(鹿児島県加治木町)の親教会という関係になる。


1、恩師との出会い
 
 恩師との出会いは、無自覚ながら、母が大正四年夏、産後の腎臓病を恩師の厚き御取次によって、一命を救われおかげを蒙らせていただいたが、病後身体の不調をお願い申し上げた時、恩師より「もう一人子どもを恵まるれば、身体の具合も良くなしていただけるであろうからお願い申し上げよう」と御取次下さり、その翌年即ち大正五年十月二十八日にこの世に生ましめられたことに始まる。爾来ことごとに恩師の御取次と父母の慈愛の中に成長させていただいたのであるが、元より恩師のまたと類なき御信境、天地の大恩を感得なし給うそのご内容が理解できるはずもなく、ただおぼろげながら尊いお方として敬っていたに過ぎなかった。
 恩師のご信心を自覚的に頂きたいとの思いをさせていただくようになったのは、昭和二十年八月第二次世界大戦に日本は敗れ終戦となり、私もその年九月に復員させていただいてからのことである。

 恩師はこの終戦をどのようなお心構えでお迎えになられたか、それは月例祭後のお説教、また、終日の御結界での御理解の中に伺うことができる。「これからは、お国の再建を祈りなさい。自分のことはお願いせぬでも神様はちゃんとご存じだから」とか、「このたびの戦争でたくさんの人々が犠牲になられたが、その中で私どもは生き残されている。残された者には、残された者としての大きな責任がある」また、「これからは我が日本は武器を捨て“まこと”をもって世界にその範を示さねばならない。そうして日本国民が世界のいずれの国からも歓迎されて、どんどん海外へ進出して行くようにならねばならない」等々、なお、ご自分の抱負として「日本再建は、この安武が引受けた」との意味のことも、おもらしになったと聞かせていただいた。このように燃えるようなご信念をもっての御神勤、ご生活であった。
 畏くも三代金光様から、「信心報国」の御書下げを賜わられたのもその頃であった。
 恩師の、このような姿勢を頂いて、敗戦によって世情混乱の中、進むべき方向を見失っていた信奉者等は、一斉に立ち上がった。
 中でも、青年信奉者等は競い合って朝参りに励み、御祈念が終り晨朝信話を頂き、信心の研修に励ませていただいた後、さらに大広前の廊下の拭き掃除、広い境内の清掃をさせていただくことをこの上なき喜びとし、そこから一日の信心生活のスタートとさせていただいた。
 翌二十一年、年頭の寒修行には寒さも神様のみ恵みと、私も参拝の時には裸足参りを続けさせていただいたが、井戸ポンプの所で足を洗って、お広前で御祈念う頂くと両足がポカポカと暖かく、そのときの感触は今でも脳裏に残っております。御祈念後掃除のおかげを頂き、帰るときには下駄を履いて行くのですが、また、それが有難く感じられました。そのような時、何時も青井正美氏(後、甘木教会在籍教師として御用)と一緒でしたが、お互いに当面している問題、親兄弟にも打ち明けられないようなことでも、二人の間には何の隔たりもなく、すらすらと話し合いができて、あまりに信心話しに夢中になり別れ道までくるのがあっという間に感じられた。
 この青井氏が中心となり、それまで戦時中のために会員が減り自然休会の状態であった青年会も、徐々に再興が進められて行った。
 今、当時のことを憶い起こすと、毎日毎日が神様と信心以外になかったように思います。恩師の、熱烈なお祈りと御取次ご教導によりまして、信奉者等に信心の灯が次々と点され広がっていった。
 その頃、地方信徒会が各地の信奉者の家で毎晩のように開かれたが、現在のように自動車等のない時なので、大抵のところには歩いて行きました。農家の私も、一日中一生懸命に家業に励ませていただき、夕方は少し早目に家に帰り入浴後、夕食もそこそこに飛んで信徒会に参加しました。また、現親先生(故、二代甘木教会長 安武文雄師)も金光教学院を卒業された頃ですので、親先生を中心にいつも十名くらいの若者達が連れ立って、六キロも八キロもある所まで行かせていただき、夜半遅くまで信心を求め合って帰りには何時も十二時過ぎになっておりました。
 今でも印象深く残っておりますことは、教会から八キロほど離れた夜須町の吉田近雄氏宅での信徒会に、青井正美氏と連れだって行きましたが、一月末の酷寒の夜で、夕方からパラついていた雪がシンシンと降り積もって、夜半には三十センチ程にもなりましたが、その雪の中を午前一時頃から吉田家を出て、二人で信心話に夢中になって帰り、教会に着いたのが明け方の三時頃で、それから御広前で御礼申し上げ家に帰った時は三時半を過ぎており、すぐに布団の中にもぐり込ませていただくというような有様でした。そうして微睡(まどろ)む間もなく、朝参りをさせていただくという具合でした。しかし、それがひとつも辛いとも苦しいとも思えず、むしろ楽しく毎日毎日が張りのあるせいかつであったように思います。
 当時は、皆競い合って朝参りに励ませていただき、例えば、仕事等の関係で少し遠い所へ行くようなことがあり、どれ程遅くなるようなことがあっても必ず我家へ帰っておりました。それは、外泊しますと翌日の朝参りができないということで、とにかく皆が「朝参りこそ我が生命」というような思いであったように思います。その当時、教友の中尾始という人が、胃潰瘍の手術を受けましたが、ご本人はそのことによりまして大きく信心が成長いたしました。このようなことを通して、二十代の若者達が信心生活の楽しさはこんなものかと、終戦直後の暗黒な世相であっただけに、一入(ひとしお)身にしみて感じ入ったものでした。
(つづく) 

『私の頂く 安武松太郎師』表紙(見出し)

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