『わたしのいただく 安武松太郎師』D 『私のいただく 安武松太郎師』D
(矢野政美著 昭和56年12月発行)

5、恩師のご帰幽

 布教四十五年記念祭が終えられて、恩師は目立ってお弱りになられたようでした。
 翌二十五年の元旦祭には、ついに斎主としてお立ち下さることが出来ず、ずっと病床にお就きになりましたが、婦人会の幹部の方が看護させていただくことを安らかにお受けになられ、全く無言でまさに神様のご境地にお進みになられたように感受させていただきようでありました。
 同年八月下旬、恩師は一時危篤状態にまで陥られたが、月末頃には小康を得られました。
 明けて昭和二十六年一月十九日、二十日にかけて、私は現親先生(二代文雄師)のお伴をして、前々から教主三代金光様から布教地について鹿児島県加治木町との御神命を頂いておりましたので、加治木に借家探しに参り、十九日の夜は栗野教会に泊めていただき、二十日に加治木であちこちと適当な借家を探し回りましたが、なかなかこれという家が見つかりませず、そうしておりますところへ夕刻栗野教会から親先生宛に、恩師が重態に陥られたとの電報がまいりまして、取るものも取りあえず夜行列車で帰らせていただきました。当日は寒い日で、一面の銀世界でした。
 その時も、危機を脱せられましたが一日一日と、恩師とお別れする日が近づくような何とも言えない気持ちで過ごさせていただいておりました。
 昭和二十六年二月四日朝九時、親奥様、現親先生ご夫妻を始めご親類、教え子の諸師数名、修行生一同の見守る中で、天津祝詞奏上中いと安らかに、御齢八十二歳を以って神上がりになられました。
 実に、明治三十七年五月八日御齢三十五歳を以ちまして甘木の地にご布教下さり、赫々たる御教績をお建てになり、どれ程多くの人々が取次助けられてまいりましたことか。
 私も母も、ご布教の年に父の病気で御神縁頂きましてより四十七年、今日あることを御礼申上げても尽きせぬ思いが致します。
 恩師の願いを、現親先生が確かに受け継がれ祈り下されてありますことは、真に勿体ないことであります。 
(つづく) 

『私の頂く 安武松太郎師』表紙(見出し)

『私の頂く 安武松太郎師』@
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『母の想い出』@
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